レコンストラクション

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    レコンストラクション

    レコンストラクション
    レコンストラクション(Reconstruction,「再生」「回復」の意味)とは、アメリカ南北戦争によりアメリカ連合国と奴隷制システムが崩壊した後の問題を解決しようとする、1863年(または1865年) から1877年までの過程を意味するアメリカ合衆国史の用語である。
    レコンストラクションの間、連邦政府は南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組んだが、解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人) の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗した。
    合衆国のレコンストラクションのためにこれらの課題をどのように達成するかのについての議論はすでに1861年には始まっていたものの、歴史家は通常その時代の始まりを、1863年1月1日の奴隷解放宣言からとしている。


    穏健派の南部再建

    穏健派の南部再建
    1865年春の南北戦争終結後、北部を地盤とする共和党のリーダーたちは、奴隷制および奴隷所有者の権利は永久に壊されたと理解し、アメリカ連合国の国旗やシンボルなど連合国のナショナリズムを表すあらゆる形式のものは抑圧された。
    共和党穏健派は、これらは連合国の軍が降伏したのと同じくらいすぐに容易に達成できるであろうと考え、そして南部州は脱退を撤廃し、アメリカ合衆国憲法修正第13条を承認した。
    これら全ては1865年9月までに起こったことである。
    エイブラハム・リンカーン大統領は共和党穏健派のリーダーで、レコンストラクションの速度を上げて可能な限り早く国を再建することを望んでいた。
    1863年後半、リンカーンは正式に、いくつかの州で実施されたが共和党急進派は反対した「10パーセント計画」で、レコンストラクションを開始した。
    リンカーンは、南部に対し厳しく接するべきだという急進派のプランである1864年のウェイド=デイヴィス法案に対しては拒否権を発動した。


    共和党穏健派と急進派の対立
    共和党穏健派と急進派の対立
    リンカーンの対立派閥だった共和党急進派は、奴隷制を廃止し連邦政府に従うという南部諸州の決意に対して強く疑いの念を持っており、もっと強制的な連邦政府の行動を要求した。
    事実、連合国のリーダーたちは穏健的なリンカーンの政策下で次々復権していた。
    共和党急進派のリーダーは連邦議会議長のサディアス・スティーヴンズと上院議員チャールズ・サムナーだった。
    リンカーンの暗殺の後、新たに就任したアンドリュー・ジョンソン大統領は急進派寄りから穏健派寄りへと変わった。
    当初、彼は合衆国有色人種部隊の退役軍人へ投票権を与えることにとても積極的だった。
    しかし1866年、どの政党にも属さないジョンソンは、共和党穏健派と袂を分ち、平等主義と修正第14条に反対していた南部を地盤とする民主党とより強く手を結んだ。
    急進派はジョンソンの方針を攻撃し、特に自由黒人への公民権法案に対する彼の拒否権発動を攻め立てた。
    1866年アメリカ合衆国議会選挙により、決定的に力のバランスは変わった。
    急進派は連邦議会の主導権を握り、ジョンソン大統領の拒否権を覆し大統領を弾劾するのさえ十分な議席を得た。
    ジョンソン大統領は一票差で弾劾を逃れたが、しかしレコンストラクションの政策を押し進めるにはすでに力が残っていなかった。
       

    南部に対する軍事占領
    南部に対する軍事占領
    共和党急進派は軍事再建法を通過させ、合衆国軍を用いて南部諸州を軍事的に占領するにいたった。
    北部の占領下の南部では黒人に投票権が与えられ、およそ1万から1万5千人の元連合国の役人や高官の白人が公職追放され投票権を取りあげられた。
    共和党急進派の政策は、自由黒人(解放奴隷) やスキャラワグ(Scalawag, 南部の再編入を支持した南部白人) 、カーペットバッガー(Carpetbagger, 南北戦争後に南部にやってきた北部人) らが連携し主導権を持つ州で持続し、鉄道や公立学校の建設を通じた南部の産業・社会の再建と近代化を進展した。
    しかし彼らは1870年以後、保守的な民主党の派閥で自らをリディーマー(Redeemer, 共和党急進派に対する反動として北部に対抗した保守的な南部人) と呼ぶ反対勢力によって不正行為のかどで告訴された。
    この時期、南部白人が結成したクー・クラックス・クランが暗躍し、北部人や黒人に対する暴力が後押しされていたが、連邦政府や軍の介入によって圧倒されていた。
     
    南部再建終了と南部監視の放棄
    1877年までに、リディーマーたちは南部諸州で共和党から主導権を取り戻した。
    ラザフォード・ヘイズ大統領は合衆国軍を南部から撤退させ、3つの州で残っていた共和党政権の崩壊を引き起こした。
    南部諸州では相次いで有色人種に対する隔離政策が始まり、修正第13条・14条・15条は過去の遺物と化した。
    この時代の熱い党派精神から来る苦々しさは、20世紀まで続くことになる。

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    南北戦争の意味
    南北戦争については次のような対立軸が考えられる。
    奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
    保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部
    このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。
    この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。
    この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。
    農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
    北部は当初、南部に勝てるはずがないと見込んでいた。
    接近戦となると武器に優れ、強靭な肉体を持つ黒人奴隷と戦うことを想定すると、勝てる見込みはないとしていたのである。
    そこで北部はしきりに奴隷解放を謳い上げ、黒人の戦争の不参加を促すことに成功した。
    南部は独立を求めた。
    その理由は奴隷制の維持である。
    独立しなければ奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。
    モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を忌避した連邦は、強い主権国家を標榜しており、南部諸州の離脱は認めがたかった。
    また当時、アラスカはロシア領であり、数年前にクリミア戦争で南下政策が食い止められたばかりであった。
    合衆国としての強い基盤を築くためには、独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。
    サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。
    結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。
    終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。
    列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に、中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。
    また、日本においてはこの戦争で使われた大量の中古小銃類が、大量に輸入され、戊辰戦争の武力として使われている。
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