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南北戦争の原因2
党派間の緊張と民衆政治の出現
1850年代の政治家達は1820年代と1850年代における政党間闘争を抑圧した伝統が拘束する社会で行動した。 その中でも最も重要なことは2大政党制を安定して維持することだった。 その伝統が民衆民主主義の北部と南部で急速に拡大するにつれ浸食されていった。 それは大衆政党が予測できなかった程度まで投票者の参加を活性化した時代であり、政治がアメリカ大衆文化の基本的構成要素となった時であった。 平均的アメリカ人にとって1850年代は今日よりも政治参加が大きな関心となったことに歴史家も同意している。 政治はその機能の一つであり、大衆娯楽の一形態であり、応酬のある見せ物であり、パレード(お祭り)であり、さらに彩りのある個性であった。 さらに言えば指導的な政治家はしばしば大衆の興味、願望および価値観を集める焦点として活動した。
例えば歴史家のアラン・ネビンスは1856年の政治集会は2万人から5万人までの男女の参加者があったと書いている。 1860年までに投票率は84%と高くなった。 1854年から1856年に過剰なまでに新しい政党が現れた。 共和党、人民の党、反ネブラスカン、連合主義者、ノウ・ナッシングズ(カトリック・移民排斥主義者)、ノウ・サムシングズ(反奴隷制・移民排斥主義者)、メイン・ローイッツ、テンペランス・メン、ラム民主党、シルバーグレイ・ホイッグ、ヒンズー、ハードシェル民主党、ソフトシェルズ、ハーフシェルズおよびアドプテッド・シティズンズであった。 1858年までにこれらのほとんどが消失し、政治は4つの方向に分かれた。 共和党は北部の大半を制したが、少数派でも強い民主党がいた。 民主党は北部と南部で分裂し、1860年の大統領選には2人の候補者を立てた。 南部の非民主党は異なる連衡を試み、多くの者は1860年には憲法同盟党を支持した。
南部諸州の多くは1851年に憲法会議を開催し、無効化と脱退の問題を論じた。 サウスカロライナ州は例外で、その会議の投票には「脱退なし」という選択肢が無く、「他の州との協同なしで脱退無し」があった。 他の州の会議では連合主義者が支配的であり、脱退案を投票で退けた。

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南部の近代化に対する恐怖
アラン・ネビンスは、南北戦争が「抑えられない」紛争であったと指摘した。 ネビンスは道徳的、文化的、社会的、理論的および経済的問題を強調する、競合する証言を総合的に扱った。 そうすることでネビンスは歴史に関する議論を社会と文化の要素に置き直した。 南部と北部は急速に異なる民衆になっていったと指摘したが、これは歴史家のアベリー・クラバンも指摘するところだった。 この文化的違いの根源には、奴隷制の問題があるが、地域の基本的な仮定、趣旨および文化的目的は他の方法でも分化しつつあった。 より具体的に言えば、北部は南部を恐れさせるくらい急速に近代化していた。 歴史家のジェイムズ・マクファーソンは次のように説明している。
1861年に脱退指向者達が、自分達は伝統的な権利と価値観を守ろうと行動していると抗議した時、彼らは正しかった。 彼らは北部の脅威が自分達に掛かっていることに対して憲法に保障される自由を守ろうと戦った。 南部の共和制の考え方は4分の3世紀を経ても変わらなかった。 北部は変わった。 ... 共和党の台頭はその競争力ある理論である平等主義的自由労働資本主義と共に、南部の者にとっては、北部の多数がこの脅威ある革命的な未来に向かうことが避けられないという兆候であった。
ハリー・L・ワトソンは戦前の南部社会、経済および政治の歴史を研究し纏めた。 ワトソンの見方では、自己満足のヨーマン(自作農民)が、市場経済の推進者に政治的な影響力が加わることを容認したことで、「自分達の変化と協業した」。 その結果としての「疑いと憤懣」が、南部の権利と自由が黒人共和主義によって脅威を与えられているという議論に肥沃な土壌を与えた。
J・ミルズ・ソーントン3世はアラバマ州の平均的白人の見解を説明した。 ソーントンは、アラバマが1860年のはるか以前に厳しい危機に見舞われていたと強調している。 共和制の価値観に表される自由、平等および自治という原則に深く囚われていたものが、特に1850年代に容赦ない関連市場の拡大と商業的農業によって脅威に曝されているように見えた。 アラバマの人々はかくして、リンカーンが選ばれることが最悪の事態と判断し信じる用意が出来ていた。

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西部の奴隷制
領土の獲得
1850年代に、1820年のミズーリ妥協に遡って生じていたのと同じ問題により、党派間の緊張関係が復活した。 すなわち新しい領土における奴隷制であった。 北部の者と南部の者はマニフェスト・デスティニーを異なる方法で定義するようになり、結合力としてのナショナリズムを蝕んでいた。
米墨戦争の後の獲得領土に対する議論の結果、1850年の妥協は生まれた。 これには逃亡奴隷法の強制に関する規定もあり、北部では一連の小さな地域的エピソードを生み奴隷制に関する関心を上げた。
カンザス・ネブラスカ法
ほとんどの人はこの1850年妥協で領土問題が終わったと考えたが、1854年にスティーブン・ダグラスが民主主義の名のもとに問題を再燃させた。 ダグラスはカンザス・ネブラスカ法を上程し、開拓者のために質の高い農業用地を解放しようとした。 ダグラスはシカゴの出身であり、シカゴからカンザスやネブラスカに鉄道を敷くことに特に関心があったが、鉄道が論争点ではなかった。 より重要なことはダグラスが草の根民主主義を信奉していたことであり、実際にその地に入植した者達が奴隷制を採用するか否かを決めればよいのであって、他の州の政治家がとやかく言うことではないと考えた。 ダグラスの法案は領土議会を通じた住民主権で「奴隷制に関するすべての問題」を決めるべきであるとし、結果的にミズーリ妥協を実質的に撤廃しようとしていた。 この法案に対して起こった民衆の反応は、北部諸州での嵐のような抗議であった。 それはミズーリ妥協を撤廃する動きとして認識された。 しかし、法案の提出後最初の1ヶ月の民衆の反応は事態の重大性を一般に伝えることができなかった。 北部の新聞が当初この問題を無視していたので、共和党の指導者は民衆の反応の欠如を後悔していた。
結果的に民衆の反応は起こったが、指導者はそれを誘発する必要があった。 サーモン・チェイスの「独立した民主主義者の訴え」が世論を立ち上がらせるために強く働いた。 ニューヨークではウィリアム・スワードが取り上げ、他の誰も自発的には動かなかったので、自らネブラスカ法案に反対する集会を組織した。 「ナショナル・エラ」、「ニューヨーク・トリビューン」および地方の自由土地新聞などの報道機関が法案を非難した。 1858年のリンカーンとダグラスの討論は、奴隷制拡張問題に国民の関心を惹き付けることになった。

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共和党の設立
北部の者達は北部の社会が南部のものよりも優れていると考え、南部が現在の境界を越えて奴隷の力を拡げようという野心を持っていると徐々に確信するようになり、紛争もあり得るという見解になりつつあった。 しかし紛争は共和党の支配的立場を必要とした。 共和党は辺境での「自由土地」を人気を呼ぶ感情的な問題として政治活動を行い、結成後わずか6年でホワイトハウス(大統領)を掴んだ。
共和党はカンザス・ネブラスカ法の立法化に関する議論の中で成長した。 カンザス・ネブラスカ法に対する北部の反応が起こると、その指導者は新たな政治的組織を作るように動いた。 ヘンリー・ウィルソンは、ホイッグ党が既に死んでいると宣言し、それを蘇らせる如何なる動きにも反対すると誓った。 「ニューヨーク・トリビューン」のホレイス・グリーンリーは、新しい北部の政党の結成を要求し、ベンジャミン・ウェイド、サーモン・P・チェイス、チャールズ・サムナーなどがネブラスカ法案に反対する同盟について語るようになった。 「ニューヨーク・トリビューン」のガマリエル・ベイリーは5月に反奴隷制側のホイッグ党議員と民主党議員の党員集会の招集に動いた。
集会は1854年2月28日にウィスコンシン州リポンの会衆派教会で開催され、ネブラスカ法案に反対する30人程の者が新しい政党の結成を要求し、党名には「共和党」が最も適当であると提案した(これはその動機を独立宣言に結びつけるためであった)。 これらの提案者が1854年の夏に多くの北部諸州で共和党を結成するための指導的な役割を演じた。 保守的および中道的な者達は単にミズーリ妥協を回復するか奴隷制の拡大を禁じるかを要求するだけで満足していたが、改革派は逃亡奴隷法の撤廃と、奴隷制が存在する州での急速な奴隷制廃止を主張した。 「改革」という言葉は領土における奴隷制を拡大した1850年の妥協に反対する者達にも適用された。
しかし、後出しの恩恵も無く、1854年選挙では反奴隷制よりもノウ・ナッシング運動の方が勝利する可能性を示していた。 カトリックと移民の問題が奴隷制よりも民衆に訴える力があるように思われたからである。 例えば、ノウ・ナッシングズは1854年のフィラデルフィア市長選挙で8,000票以上の大差で勝利していた。 ダグラス上院議員はそのカンザス・ネブラスカ法に対する大きな反論を受けた後ですら、民主党に対する基本的な脅威として、共和党よりもノウ・ナッシングズの方を上げていた。

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共和党が自分達は「自由労働」を主張する政党であると主張すると、その支持者が急増したが、主に中流階層による支持であり、賃金労働者や失業者など労働階級の支持ではなかった。
共和党が自由労働の美徳について褒めそやす時、それは単に「事を成就した」多くの者と実際にそうしたいと考えているその他多数の経験を反映しているだけであった。 イギリスのトーリー党と同様に、アメリカの共和党は民族主義者、均質主義者、帝国主義者および国際人として浮上してきた。
まだ「事を成就し」ていない人々の中には、北部の工場労働者の中での比率が大きく伸びていたアイルランド移民が含まれていた。 共和党はその秩序ある自由という構想に基本的に必要な自制心、克己心、および冷静さという性格がカトリックの労働者には欠けていると見なすことが多かった。 共和党は、教養、信条および勤勉さには高い相関があると主張していた。 それはプロテスタントの労働倫理の価値観であった。 共和党支持のシカゴ・デモクラティック・プレスは、1856年の大統領選挙でジェームズ・ブキャナンがジョン・C・フレモントを破った後の社説に「自由学校が悩みのタネと見なされる所、宗教が疎んじられ、怠惰な浪費が支配的な所、そこではブキャナンが強い支持を受けた」と書いた。
民族と宗教、社会と経済および文化の断層線がアメリカ社会に走っていたが、党派色を強めていくことになり、上昇する産業資本主義に利益を見出すヤンキーのプロテスタントと、南部の奴隷所有者の利益に結びついた者に対する反対を強めたアメリカ的民族主義者の対抗という形になっていった。 例えば、評価の高い歴史家ドン・E・フェーレンバッヒャーはその著書「1850年代における偉人、リンカーンへの序曲」の中で、イリノイ州では目立った選挙結果は開拓地の地域形態と相関があることを指摘して、いかに国の政治の縮図となっているかを述べた。 南部出身者が入植した開拓地は民主党に忠実であり、ニューイングランドからきた者は共和党に忠実であった。 さらに境界にあたる地域は政治的に中道であり、慣習的に力の均衡を図っていた。 宗教、倫理感、地域および階級的同一性が縒り合わさり、自由労働と自由土地の問題は容易に人々の感情をあおった。
「血を流すカンザス」における次の2年間の出来事は、カンザス・ネブラスカ法によって元々北部の一部の者に引き起こされた民衆の熱情を維持させた。 北部出身の者は新聞や説教および奴隷制度廃止論者組織の力強い情報宣伝によって勇気づけられた。 マサチューセッツ移民援護会社のような組織から財政的な援助を受け取ることも多かった。 南部出身の者はその出てきた地域社会から財政的支援をしばしば受けていた。 南部の者達は新しい領土で出身地の憲法で保障された権利を守ることを求め、「敵対的また破滅的な立法」を撃退するに十分な政治的力を維持しようとした。
大平原は綿花の栽培にはほとんど不向きであったが、西部が奴隷制に開放されることを要求した南部の者達は心の中には鉱物のことを考えていた。 例えばブラジルでは、鉱業に奴隷の労働者を使って成功した事例があった。 18世紀の中頃、ミナスジェライス州では金鉱に加えてダイヤモンドの採掘が始まり、ブラジル北東部の砂糖生産地域から奴隷を連れたその所有者が大挙して押し掛けた。 南部の指導者達はこの事例を良く知っていた。 それは既に1848年の奴隷制擁護派雑誌「デボウズ・レビュー」で奨励されていた。
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