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南北戦争の原因4
無効化の危機
アメリカ合衆国下院ではサウスカロライナ州選出のジョン・カルフーンが米英戦争、保護関税、政府出資による国内の改良および国立銀行に賛成してきた。 カルフーンはヘンリー・クレイの経済政策「アメリカン・システム」を早くから支持しており、カルフーンとクレイは共に、自分達の出身州に連邦政府の政治的な力が及ぶことに反対していた。 おそらくこのことでクレイは大統領に成れなかった。 アレクサンダー・ハミルトンが提案し、後にドイツ系アメリカ人経済学者フリードリッヒ・リストによって「国のシステム」に発展された連邦税制は、その目的がアメリカの重工業と国際貿易を発展させることであった。 鉄鋼、石炭および水力発電は主に北部にあり、この税制は経済基盤が農業にあった南部の恨みを買うことになった[24][25]。 南部の指導者達は既に相対的に裕福であり、容易にヨーロッパ製品を買うだけの余裕があったし、(クレイを除いて)アメリカ合衆国内の他の場所が経済力を付けるために税金を払いたくないと考えていた。 よって1828年までにカルフーンは保護関税がサウスカロライナ州にとって有害であるだけでなく、憲法にも反していると考えるようになった。 一つの州で集められた税金や関税が国内の他の州の改良に使われることにも反対した。 カルフーンは憲法違反と考えられる法に対して州として抵抗する体系を考え始めた。
だいたい1820年から南北戦争まで、これら均質化の圧力による歪みは常に貿易と関税の問題であった。 南部の農業経済はその収入を輸出に頼り、また工業製品をヨーロッパからあるいは北部から得ていた南部は、貿易への依存度が高かった。 反対に北部は国内産業経済が発展し外国貿易は競争相手と見ていた。 特に保護関税のような貿易障壁は輸出に頼る南部にとって有害であると見られた。 1828年、連邦議会は北部諸州の貿易に恩恵を及ぼす保護関税法案を通したが、これは南部にとって不利益をもたらすものだった。 南部人の言う「嫌悪の関税」(1828年関税法のこと)に反応して書かれた「サウスカロライナ州説明と抗議」のような文書で南部の者達は関税に対する抗議を声高に表すようになった。

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サウスカロライナの者達は「嫌悪の関税」が撤廃されることを4年間待ったが、連邦議会があまり変わり映えのしない1832年の新関税法を法制化するとその怒りが頂点に達し、合衆国結成以来最も危険な党派的抗争危機となった。
サウスカロライナの者達は合衆国からの脱退すら示唆した。 しかし、カルフーンは関税に対する熱心な抗議者達を説得して、その戦略に脱退ではなく、無効化(連邦法の承認または執行の拒否)の原理を採用させた。 新しく選出されたサウスカロライナ州議会は直ぐに州の会議への代議員選出を要求した。 この州の会議は招集されると直ぐに投票によって、1828年と1832年の関税法は州内で無効と宣言した。 アンドリュー・ジャクソン大統領は確固とした態度で臨み、この無効化は反逆行動であると宣言した。 ジャクソンは続いてサウスカロライナ州内にある連邦軍砦の強化措置を採った。
1833年早くに議会内のジャクソン支持者が、大統領に連邦法を強制するためにアメリカ陸軍と海軍を使う権限を与える「強制法案」を導入したことで、暴力沙汰が起こる可能性が現実のものとなった。 他の州はサウスカロライナ州を支持する側には回らず、サウスカロライナ州自体も連邦政府と対決姿勢を続けることについて意見が分かれた。 この危機は、クレイとカルフーンが妥協関税を編み出すことで回避された。 その後はどちらも勝利を宣言した。 サウスカロライナ州のカルフーンとその支持者は無効化の勝利を宣言し、一つの州が関税を変えることを強いたと主張した。 しかし、ジャクソン支持者は如何なる州も独立した行動でその権利を主張することは出来ないということを示したという受け取り方をした。 翻ってカルフーンは、南部の団結という意味合いを作り上げることに務めたのであり、別の行き詰まり状況ができた場合に、全南部が連邦政府に抵抗して一つの連合として行動する準備ができたと考えた。
サウスカロライナ州は、州の境界内で1828年と1832年の関税法が無効と宣言する無効化条例を採択することにより、この関税を取り扱った。 州議会は条例を執行させる法も通したが、これには軍隊を組織することと武器を調達することの許可も含めていた。 サウスカロライナ州の脅しに対し、連邦議会は「強制法案」を通し、ジャクソン大統領は1832年11月、チャールストン港にアメリカ海軍の7隻の艦船と1隻のマン・オブ・ウォーを派遣した。 12月10日ジャクソンは無効化宣言者に対して居丈高な宣言を発した。
この問題は1842年のいわゆる「黒い関税」で再燃した。 1846年のウォーカー関税で比較的自由な貿易ができた期間は小康状態となり、1860年に保護主義のモリル関税が共和党によって導入されると、南部の反関税感情は再度燃え上がった。

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南部の文化
南部においても奴隷を所有する人の比率は小さかったが、あらゆる階級の者達が北部の自由労働・奴隷制度廃止運動の盛り上がりによって脅威に曝されている奴隷制を、自分達の社会秩序の礎石として守る方に回った。
プランテーション奴隷制という仕組みに基づいて、南部の社会構造は北部より深い階層構造になり、また男性支配であった。 1850年、南部の自由人人口は約600万人であり、このうち35万人が奴隷所有者であった。 奴隷所有者と一口に言っても、その集中度合いには偏りがあった。 おそらく奴隷所有者のわずか7%が奴隷人口の4分の3を所有した。 大規模奴隷所有者は一般に大規模プランテーションを所有しており、南部社会の上層を代表していた。 規模の経済の恩恵を受けるために、利益に繋がる綿花のような労働集約的作物を生産するには大きなプランテーションに大勢の奴隷を必要とした。 このプランテーションを所有する貴族的なエリート階層は「奴隷王」とも呼ばれ、20世紀の百万長者にも匹敵するものであった。
1850年代、大規模プランテーション所有者は小規模農場主を駆逐し、より多くの奴隷がより少数の農園主に所有されるようになった。 奴隷所有者である白人人口の比率が南北戦争前に減少する中で、貧乏白人と小農は一般にプランテーションを所有するエリート階層の政治的指導力を受け入れていた。
奴隷制が南部に始まった民主改革の動きによっても重大な内部崩壊の恐れが無かったことについて、幾つかの要素で説明される。 1つめは、西部の新領土が白人開拓者に開放され、奴隷を所有していなかった多くの者にも人生のどこかの時点で奴隷所有者になれるかもしれないと考えさせたことである。
2つめは、南部の小規模自由農民がヒステリックな人種差別観を抱いており、南部における内部民主改革の担い手にはなり得なかったことである。 白人優位の原則は南部のあらゆる階層の白人に認められており、奴隷制は合法で、当然で、文明社会の基本であった。 南部の白人至上主義は「奴隷法」や黒人が白人に従うことを定める念入りな言論、行動、および社会制度の法のように、公式に抑圧の仕組みを作ることで保たれていた。 例えば「奴隷巡邏隊」は南部のあらゆる階層の白人が当時の経済的また自主的秩序を支持するために作られた制度の一つである。 奴隷の「巡邏隊」や「監督者」として働くことは、南部白人の権力と栄誉ある位置付けを示すことだった。 これらの役職者に貧しい南部白人が就いたとしても、プランテーションの外をうろつく奴隷ならばだれでも停止させ、捜索し、鞭打ち、不具にし、さらに殺すことすら認められた。 奴隷の「巡邏隊」や「監督者」は地域社会での権威も得られた。 奴隷社会の垣根を越えた黒人を取り締まり、罰することは、南部の価値ある公共任務であった。 そこでは法と秩序を脅かす自由黒人の存在についての恐れが、当時の公的な会話の中でも重きを成していた。
3つめは、少数の奴隷を所有する小農と自作農が市場経済を通じてエリート階層農園主と結びついたことである。 多くの地域では、小農は綿繰り機、市場、食料や家畜および貸付金を得ようとすれば地元のエリート階層農園主に頼っていた。 さらに、様々な社会階層の白人、その中には市場経済の外、あるいは市場経済の境界付近で働く貧乏白人や「並の人」がいたが、彼らも広範な同族関係でエリート階層農園主と結びついていた可能性がある。 例えば、一人の貧乏白人がその郡の最も裕福な特権階級の人の従兄であるかもしれないし、金持ちの親戚と同じくらい好戦的な奴隷制の支持者である可能性があった。
こうして1850年代までに、南部の奴隷所有者と非奴隷所有者は共に、北部諸州で自由土地や奴隷制度廃止運動が盛り上がったために、心理的にも政治的にも国の政治的土俵の中に取り囲まれていくように感じ始めた。 工業製品や商業的サービスおよび貸付金については北部への依存度が高まり、北西部の反映する農業地域の影響で圧迫もされ、南部の者達は北部の自由労働や奴隷制度廃止運動が成長する可能性に直面した。

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好戦的な奴隷制防衛論
カンザスの展開に関する抗議の声が北部で強くなるに連れて、奴隷制を守る側は奴隷制度廃止運動家やその同調者が時代遅れで不道徳と考えるような生き方をするようになり、エイブラハム・リンカーンの登場と共に脱退への基礎固めとなるような好戦的奴隷制擁護理論に移っていった。
南部の者達は北部の政治的変化に辛辣な反応をした。 奴隷所有者の興味はその領土で憲法に保障される権利を守ることと、「敵対的」で「破壊的」な法制に反撃するだけの十分な政治力を維持することに向けられた。 この変化の背景には綿産業の成長があり、南部の経済にとって奴隷制がそれまでにないくらい重要なものになっていったことがあった。
文学
ハリエット・ビーチャー・ストウの「アンクル・トムの小屋」(1852年)が人気を呼び、奴隷制度廃止運動(1831年、ウィリアム・ロイド・ガリソンによる「ザ・リベレーター」紙の創刊後に宣言された)の成長に対する反応は、奴隷制の周到な知的防衛であった。 言論による(時には暴力による)奴隷制度廃止運動は1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃で頂点に達し、南部の者達の目には重大な脅威と映り、奴隷制度廃止運動家は1790年代のハイチ革命や30年ばかり前のナット・ターナーの試みのような激しい奴隷反乱を扇動しているように思われた。
1846年にJ・D・B・デボウが発行した「デボウズ・レビュー」は、北部に経済的に依存していることについて農園主階層に警告を発し、南部の指導的雑誌に成長した。 「デボウズ・レビュー」は脱退に向かう世論を導くものとしても注目を浴びた。 この雑誌は北部に製造業、造船業、銀行および国際貿易が集中している事に関連して南部経済の不平等を強調した。 奴隷制を裏付けする聖書の言葉を探し、経済的、社会学的、歴史的および科学的な議論を起こすことで、奴隷制を「必要悪」から「積極的善」に変えた。 現在の全体主義者の考え、特にナチズムのものを予知させるJ・H・ヴァンエヴリーの著書「黒人と黒人奴隷:劣等人種の黒人:通常状態としての奴隷」は、題名からして物議を醸すものだが、人種差別に疑似科学的な分析と理論付けを適用しようとしたものであった。
潜在的な党派が党派理論に現れた軽蔑的な党派のイメージを突然活性化させた。 産業資本主義が北部で勢いを増すに連れて、南部の著作家は自分達の社会で価値を見出す(実行されないものもあったが)貴族的な特質のものなら何でも、すなわち礼儀正しさ、優雅さ、騎士道精神、生活のゆっくりとしたペース、秩序ある暮らしおよび余暇を強調した。 これは奴隷制が工場労働よりも人間的な社会を提供するという議論も支持した。 ジョージ・フィッツヒューの著書「カニバルズ・オール!」(全ての人を食え)は、自由社会の労働者と資本家の間の対立が「泥棒貴族」と「貧困の奴隷」を生み、奴隷社会ではこのような対立が避けられるとしていた。 その上で北部の工場労働者の利益のためにも労働者を奴隷化した方が良いと提唱した。 一方、エイブラハム・リンカーンは、南部の言う「北部の賃金労働者は運命的にその生活条件に固定されている」という当て擦りに対して非難していた。 自由土地の者達にとって、南部の固定観念は全くの対極にあるもの、すなわち奴隷制が揺るぎない反民主主義的貴族政治を維持している動きのない社会のものであった。

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アメリカ的政党政治の崩壊
ドレッド・スコット判決およびレコンプトン憲法
南北戦争の前、2大政党制の安定感は伝統的に国を纏める力となっていた。 過去に、古い政党制は国の様々な地域の地方的な利益とエリート階層の政治的ネットワークの間に、連携や同盟が生まれ、そのやり方に起因する分裂を続けていた。 アメリカの制度的構造は党派間の問題や不一致を扱うことができた。 1850年代以前、既に西部の奴隷制問題を中心とする党派間論争が起こっていた。 これらの論争が南北戦争を導いたのではないが、むしろ1820年の妥協と1850年の妥協を生んだ。
しかし、第二次産業革命が北部で活発になるにつれて、南部寄りの民主党は、南部の発展に対して輸送、関税、教育および銀行政策が段々と障害になっていくように見なしていた。 さらに近代的資本家の発展が北部の経済と社会を変えるにつれて、それに呼応する大衆政治の隆盛が古い2大政党制の安定感を蝕んでいた。 1856年以降は党派理論がより辛辣なものとなり、大衆政治の成長は共和党改革派によるパンフレット、演説および新聞の記事の助けを借りて、理論が政治に入ってくることを許した。 かっては単にエリート階層が関わっていた党派的緊張関係は、徐々に自由土地や自由労働の大衆理論による意味合いを増していた。 憲法でさえも分派の原因として浮上してきた。 1857年、最高裁の「ドレッド・スコット対サンフォード事件」の判決は憲法の曖昧さを浮き彫りにし、憲法に対する国民的敬意が与えていた国の結合力をも弱めることになった。
政治における党派の利益の間のバランスを保つ力に不可欠なメカニズムはかなり陳腐化されていたが、ランダルやクレイブンといった修正主義の歴史家は、国がより有能な世代の政治家に導かれれば、その修復は不可能ではないとしていた。 1858年のレコンプトン憲法(カンザス準州で作られた州の新憲法)に関する論争は共和党の中道から保守の一派と中央の管理を嫌う南部の者との連衡について絶好の機会を提供することになった。
逆援助orgを考えていたのは誰でしょうか。
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