南北戦争の原因3

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    南北戦争の原因3

    南北戦争の原因3
    「血を流すカンザス」と1856年の選挙
    1855年頃のカンザスでは、奴隷制問題が耐え難いほどの緊張感と暴力を生む状態になっていた。
    しかしこれは、開拓者の圧倒的多数が公の問題には無関心で単に西部の土地に飢えた者達である地域のことだった。
    住人の大多数は党派的な緊張関係や奴隷制の問題に無関心であった。
    その替わりにカンザスの緊張関係は敵対する要求者の間の闘争になっていった。
    カンザスに開拓者の最初の波が訪れたとき、誰も土地の権利を持っていたわけではなく、耕作に適した新しい土地を占領しようと皆が押し掛けた。
    緊張感と暴力はヤンキーとミズーリ州の開拓者が互いに競い合うという形で起こったが、奴隷制の問題で理論的に分かれていたと言うような証拠はほとんど無い。
    その替わりに、ミズーリ州の要求者はカンザスを自分達の領域と考えヤンキーの無権利居住者を侵入者と捉えた。
    ヤンキーはヤンキーで、ミズーリ州の開拓者は正直に入植することもないままに最良の土地を掴んだと告発した。
    しかし、「血を流すカンザス」の1855年から1856年にかけての暴力は、後の人に神の意志で奴隷制を壊すために遣わされた者と見なされたジョン・ブラウンが混乱の中に入ってくることによって理論的にもクライマックスに達した。
    1856年5月24日の夜に起こったいわゆるポタワトミーの虐殺で、ブラウンは5人の奴隷制擁護派の開拓者を殺し、ややいびつな形のゲリラ戦の様相になった。
    ブラウンの情熱は別としても、カンザスにおける闘争は土地と金により強い意欲を燃やす武装集団のみを度々巻き込むことになった。
    しかし、カンザスの市民の争いよりもより大切なことは、それに対する国中の反応と議会の反応であった。
    北部でも南部でも、他方がカンザスで起こっていることによってその急進的な考え方の典型としようとしている(そして責任がある)という見方が拡がった。
    結果的に「血を流すカンザス」は党派的対立の象徴となった。


    「血を流すカンザス」と1856年の選挙

    カンザスの闘争の知らせが東海岸に届く前でさえも、首都ワシントンでは奴隷制に関連して暴力的で突飛な行動が起こった。
    チャールズ・サムナーが上院で「カンザスに対する犯罪」という題で演説を行い、フランクリン・ピアース大統領の執政と奴隷制度を非難し、サウスカロライナ州の頑固な奴隷制擁護者アンドリュー・P・バトラー上院議員を槍玉に挙げた。
    このサウスカロライナ人を奴隷制の「ドン・キホーテ」と呼び、「女主人に売春婦の奴隷を選んだ。
    ...他人には醜く見えるのに本人にはいつも愛らしい、世間の目からみれば汚れているのに本人には貞淑に見える」と性的な当て擦りもふくんでいた。
    数日後サムナーは「南部紳士の作法」の餌食になった。
    これは年長の近親者の名誉を攻撃したことに対する報復を教えるものだった。
    バトラーの甥で下院議員のプレストン・ブルックスが重い杖でサムナーを殴り続け、出血し虫の息になったサムナーはその後3年間も上院に戻っては来られなかった。
    しかしマサチューセッツ州選出の上院議員サムナーは党派的緊張関係のもう一つの象徴になった。
    北部の多くの者にとって、奴隷社会の未開さを絵に描いたような事件であった。
    カンザスでの事件の展開に怒った共和党は、アメリカの歴史の中でも初めて絶対多数を占める党派となっており、最初の大統領選挙に自信を持って臨むことになった。
    その候補者はジョン・C・フレモントであり、新しい党にはまあ安全な候補者であった。
    フレモントの指名はカトリック・移民排斥主義者であるノウ・ナッシングズの支持者を混乱させた(フレモントの母はカトリックだった)が、極西部の有名な探検者で政治的な経歴の無いフレモントは元民主党員を寄せ付けるための試みであった。
    他の2人の競争者、ウィリアム・スワードとサーモン・チェイスは急進的過ぎるように思われた。
    それにも関わらず、1856年の大統領選挙はほとんど奴隷問題一色になった。
    民主主義と貴族政治の争いともいわれたが、カンザスの問題が焦点だった。
    共和党はカンザス・ネブラスカ法と奴隷制の拡大を非難したが、反奴隷制の理想と北部の経済的願望とを組み合わせる事で国内を改革するという計画を進めた。
    この新しい政党は強力な政党政治文化を発展させ、エネルギッシュな活動家が前例のないほどの数の投票者を投票に駈りだした。
    民衆も熱情を持って反応した。
    若い共和党員は「広い覚醒」クラブを組織し、「自由土地、自由労働、自由人、フレモント!」と詠唱した。
    南部の「けんかっ早い人」(fire-eaters)や中道の者ですら、フレモントが勝ったら脱退の畏れがあると口に出すようになり、民主党の候補者ジェームズ・ブキャナンは連邦の将来に関する理解から恩恵を受けることになった。
      

    州の権限
    州の権限
    連邦は諸州よりも年長かといったような疑問が出て州の権限に関する議論が盛んになった。
    連邦政府は実質的な権力を持っていると考えられるか、あるいは主権者としての州の自発的な連邦に過ぎないか、などが議論された。
    歴史家のケネス・M・スタンプによれば、各派が都合のいい時に州の権限という議論を使い、都合のいい時にその立場を変えた。
    スタンプはアメリカ連合国副大統領アレクサンダー・スティーヴンズの「州間の先の戦争について憲法の見方」を南部指導者の例に挙げている。
    スティーヴンズは戦争が始まった時には「奴隷制は連合国の礎石」と言い、南部が敗北したときには「戦争は奴隷制のためではなく、州の権限のためだった」と言った。
    スタンプはスティーヴンズが「南部の失われた大義」の最も熱心な弁護者の一人となったと言った。
    歴史家のウィリアム・C・デイビスも南部の州の権限に関する議論に矛盾性を挙げている。
    デイビスの説明では、連合国の憲法による国全体での奴隷制の擁護について次のように挙げていた。
    古い連邦では、連邦政府の権力では州の奴隷制問題に干渉する権限は無いと言っていた。
    新しい国については、州は連邦の奴隷制擁護に干渉する権限は無いと宣言するだろう。
    州の権限ではなく、奴隷制が彼らの運動の中心にあるという事実に対する多くの証拠の中で、これが取り分け雄弁なものである。
       

    新領土における州の権限と奴隷制
    新領土における州の権限と奴隷制
    「州の権限」議論は問題を複雑にした。
    南部の者達は合衆国憲法修正第10条で担保された州の権限について連邦政府は厳しく制限されており、それを簡略化はできないと主張し、それ故に新しい領土に奴隷制を持ち込むことを妨げられないとした。
    州の権限の主張者は憲法の逃亡奴隷条項も引用して北部に逃げた奴隷に連邦の法制が及ぶことを要求した。
    反奴隷制勢力はこの問題について逆の立場を採った。
    憲法の逃亡奴隷条項は憲法が書かれた時の北部と南部の妥協の産物であった。
    それは1850年の妥協の一部となった逃亡奴隷法によって強化された。
    南部の政治家で州の権限の提唱者であるジョン・カルフーンは、新しい領土を主権のある諸州の「共通の財産」と見なし、連邦議会は諸州を「つなぎ止める役割」に過ぎないと言った。
     
    州の権限と少数派の権利
    州の権限理論は、北部の人口が南部よりも急速に成長しているという事実があり、そのことは北部が連邦政府を支配するのは時間の問題となった時の反応であった。
    南部の者達は「自覚のある少数派」として行動し、憲法の厳密な解釈によって連邦政府の州にたいする権力を制限し、連邦政府が州の権限に干渉してくることに対して防衛すること、あるいは無効化、あるいは脱退が南部を救うと期待した。
    1860年以前、大半の大統領は南部か南部寄りであった。
    北部の人口成長は北部寄りの大統領選出を意味し、自由土地州を増やすことは上院でも北部と南部の対等関係を終わらせることであった。
    歴史家のアラン・ネビンスが述べているように、南部の政治家カルフーンの州の権限に関する理論は「政府は少数派を守るように作られ、多数派については自分達で面倒が見られる」というものだった。
    ジェファーソン・デイヴィスは「中傷的な差別」と「抑えの効かない多数派の専制」に対して「自由」を守る戦いが連合国に加わった州の脱退する権利を与えたと言った。
    1860年サウスカロライナ州選出の下院議員ローレンス・M・カイトは「反奴隷制の党派が奴隷制そのものが悪いと主張し、政府は強固になった国の民主主義と主張している。
    我々南部の者は奴隷制が正しいと主張し、これが主権のある諸州の連合共和国だと主張する。」と言った。
    南部の選ばれた指導者ジェファーソン・デイビスは州の平等な権限という言葉で平等を定義した。
    また、全ての者は平等に生まれているという宣言に反対した。
    憲法は、各州が同じ数の上院議員を持つということ、またある権利は州または人民に担保されると言うことに州の権限の要素を含めているのではない。
    デイビスのような南部の者はこれらの権利を北部の多数派に対する楯として解釈した。

    不倫
    南部人の近代化に関する恐れ
    歴史家のマクファーソンによれば、北部が奴隷制を段階的に廃止し、都市集中を生む産業革命を始め、教育の機会を増やし、奴隷制廃止運動のような社会改革を進めた後では、従来のアメリカ例外主義(American exceptionalism、アメリカが世界の中では例外的でかつ優れた国であるという考え)は南部ではなく北部のみに適用されるようになったという。
    北部では8人の開拓者のうち7人が移民であり、南部を離れて北部に移った白人の数がその逆の場合の2倍もあるという事実は、南部をして防衛的かつ挑発的な政治行動をさせることになった。
    「ザ・チャールストン・マーキュリー」紙は北部と南部の奴隷制問題について「単に2集団の人々ではなくて両者は競争者であり敵対的な集団である」と書いたデボウズ・レビューにも、「我々は革命に抵抗している。...我々は人の権利についてキホーテの戦いをしているのではない。...我々は保守的である」と述べられていた。
     
    開戦前の南部と合衆国
    連邦政府の権力について、また市民の忠誠心について、合衆国の建国とほとんど時を同じくして州と連邦政府の間に確執が始まり、続いていた。
    例えば、1798年の「ケンタッキー州およびバージニア州決議」は、連邦議会で連邦党が可決した「外国人・治安諸法」(Alien and Sedition Acts)を州レベルで拒むものであり、ニューイングランドで米英戦争末期の1815年に開催されたハートフォード会議は、マディスン大統領と米英戦争に反対して、合衆国からの離脱を議論したものだった。
    不倫info闘争は極めて珍しい。

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